松江に住む。松江に一戸建てを建てる。~松江の建設会社による、松江に住むための連載コラム《第2回》~
NHK朝ドラ『ばけばけ』スタートおめでとうございます!
朝ドラの舞台「松江」
2025年度後期の連続テレビ小説『ばけばけ』が、ついにスタートしました。前期の『あんぱん』がアンパンマンの作者、やなせたかしと妻暢の物語で、2人が幼少時に育つ「高知」を舞台に前半は展開しました。かなり好評だったようで、今作、後期『ばけばけ』にも大きな期待が寄せられているようです。こちら『ばけばけ』は、明治時代の「松江」を舞台にしていて、小泉セツと小泉八雲ことラフカディオ・ハーンをモデルに、文化の壁を越えた絆を育んでいく物語として描かれるようです。
実は、セツとハーンをモデルにしたドラマをNHKはすでに制作しており、1984年(昭和で言うと昭和59年)に、『日本の面影』というタイトルで放送されました。脚本は山田太一。うーん。セツ役は檀ふみ。ハーン役はジョージ・チャキリスという、ミュージカル映画『ウエスト・サイド物語』でシャーク団リーダーのベルナルドを演じた二枚目俳優です。片目をつぶし「オセツ・オセツ」と片言の日本語で見事ハーンを演じました。
ジョージ・チャキリスが収録のために松江を訪れたときには、ハリウッド俳優が松江に来ると、大いに盛り上がりました。今作『ばけばけ』で松江が盛り上がっているか?というと、セツとハーンと思われる2人と「あげ・そげ・ばけ」と描かれたポスターやフラッグが街中に飾られ、ばけばけモードに入っている感は伝わってきます。
言いたいことはいろいろあるが・・
実際に『ばけばけ』見ました。そりゃぁコテコテの出雲弁(松江の方言は広域的に「出雲弁」と言われています)で放送したら、全国的に理解できないので、部分的に出雲弁を"まぶす"ぐらいがちょうどいいんでしょう。『あんぱん』でも土佐弁が披露されており、主役たちが「たまるか~」「たっすいが~」と特徴的に連呼してました。「おべたわ~」「だらずが~」も、今後使用される放送回が訪れるかもしれませんが、土佐弁ほどのインパクトには欠けていると私は思います。
また作中でも松江がいろいろ表現されており、松江人は非常に喜ばしく受け入れております。ヒロインのトキが、夜明け直後ぐらいの早朝、宍道湖と思われる湖で柏手を「4回打つ」シーンがありますが、「4回打つ」のは出雲大社の参拝手法「二礼四拍手一礼」にちなんだものと理解しました。その湖で清々しく顔を洗い、満面の笑顔を魅せるヒロインの姿に心を打たれましたが、ん?ここ宍道湖だよね?、汽水湖(海水と真水が混ざった湖)だよね?、顔洗う・・? 今度、宍道湖沿いに住む古老に会う機会があれば聞いてみたいと思ってます。
源助柱、松江大橋
松江大橋とは?
松江の特徴的なシーンでは、「松江大橋」と思われる、欄干に擬宝珠が付いている橋が描かれています。ヒロインのトキがちょいちょい、ここでも拝んでいます。ラフカディオ・ハーンも著書『知られぬ日本の面影』で、大橋の上で鳴る下駄が忘れられない・・、陽気で、音楽的で、舞踊だ!と熱く語っております。ハーンは松江に滞在した1891年4月に新しい大橋の開通式にちょうど立ち合ったようです。2人の老人が妻子や孫、曾孫を引き連れ渡り初めをし、歓喜の声がどよめき、祝砲まで上がったと著書に残しています。
ハーンはこのようにお祝いムードの開通式を描写しつつも、昔の橋の方がはるかに美観だったと嘆いています。ハーン独特な表現ですが、「数多き橋柱に支えられた無害な種類の長肢のムカデのよう・・」と昔の大橋の姿について書き残しています。そして、朝ドラ内で、トキの友人サワも語っていた、「源助人柱伝説」についても合わせて書き記しています。
源助の悲劇「源助柱」(その一)
この源助柱については、松江人は小学校からこの源助エピソードを刷り込まれ、100%知っている話だと思います。確かそうだと記憶します。写真も参照いただきたいですが、実際の大橋南詰には石碑も建てて、源助柱伝説を伝えています。『知られぬ日本の面影』の記述から引用しつつ、現代訳も入れて紹介します。
「慶長時代に出雲の大名となった堀尾吉晴が、始めてこの河口へ橋を架けようとした時、大工が幾ら骨折っても駄目であった。柱を支へる堅固な河底が無いようで、たくさんの巨石を投げ込んで見たが何の甲斐も無く、夜の間に流されたり、丸呑みにのみこまれたからである。 しかしついに橋は架ったが、直ぐに柱が沈み出した。それから洪水で半数の柱が流され、修復をすれば、また壊われた。 そこで人身御供をして、水神の怒りを宥(なだ)めることとなった。水流の最も意地悪い、中央の柱の根元へ、一人の男を生きながらに埋めた。それから橋は三百年間びくとも動かなかった。」
長くなりますが続けますね。
「犠牲になった男は、雑賀町に住んでいた源助という者であった。それは"まち"のない袴を着けて橋を渡る者があれば、それを埋めることに当初から決めてあった。そうすると"まち"のない袴を穿いていた源助が橋を渡ろうとしたので犠牲になった。そういう訳で、最中央の橋柱は源助柱と名が付いていた。」
そして最後に小泉八雲流に締めくくります。
「月の出ない宵には ・・いつも二時から三時までの深更に・・その柱の辺りに鬼火が飛んでいたようである。諸外国と同じく、幽霊の火は日本においても大概青いものと聞いているが、この火の色は赤であったようだ。」
源助の悲劇「源助柱」(その二)
『知られぬ日本の面影』では源助の履いていた袴の"まち"について注釈がありますのでこちらも紹介します。
「"まち"は袴の腰に縫い付けた厚紙、又はその他の材料の堅い素材片で、袴の折目を正しくするためのものである。」とあります。
翻訳された(実際にハーンに松江で英語を教わった生徒)落合貞三郎先生、大谷正信先生の注釈の可能性が高いですが、"まち"は身分の高い物しか使用しないので、最初から身分の低いものを狙ったものとも読んで取れます。このあまりにも残酷な所業を、松江人の宿罪としてDNAに刻み・埋め込んで、後世にも語り継ぐのだろうと私は思っています。
しまね観光ナビ(https://www.kankou-shimane.com/destination/20636)では、「確かな証拠もなく、江戸時代に幾度か架け替えられた大橋工事中に犠牲となった人々が、源助の名に集約されて、永く巷間に伝えられたものと考えられます。」と大人なまとめ方をしているので見習いたいものです。
ハーンも同書の中で、別の説についても言及していて、こちらも面白いので紹介しておきます。
「巷の説によると、源助は人の名でなく「年号」の名が訛ったのだという(ハーンは言及してませんが、実際に大橋と呼ばれる前「元明橋」とも呼ばれていた時期もあるようで、推測ですが、この呼び名が訛ったのかもしれません。「明」と「助」もフォルムが似てますし・・)。
しかし人柱説は非常に深く信じられていて、この新橋の建築中、幾千の田舎者が市へ出るのを怖れていた。というのは、新しい犠牲が必要で、田舎者からからそれを選ぶということ、また、依然、昔風を守って髷に結っているものから選ぶという噂が起ったからである。そのために数百の老人が髷を切り捨てた。そうすると、初日に新しい橋を通行するものの内で、千人目のもの捉えて源助のように処する旨、警察に秘密の命令が下っているという噂が伝わった。いつも百姓で賑わう稲荷祭にも、今年はあまり人出が無かった。この地方の商売にとっては、数千円の損失だということであった。」と人柱伝説を締めくくっています。
地鎮祭をやりましょう
源助柱パート長すぎました。すみません。
もっと建設会社の立場で感じることをコラムにしたいと思ってましたが、非常に興味深かったので、長く『知られぬ日本の面影』を引用させていただきました。当社は建設会社ですが橋梁建築は行っておりません。河川の基礎工事に言及するには専門外です。じゃあ何に言及しましょうか・・、やっぱり土地の神様を宥(なだ)める・・、地鎮祭は当社でもやってまよね?(誰に語りかけてる?)。次回コラムでは地鎮祭を取り上げてみたいと思います。松江ならではのものが見えてくるかもしれません(見えてこなかったらすみません)。
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