松江に住む。松江に一戸建てを建てる。~松江の建設会社による、松江に住むための連載コラム《第1回》~
松江市とは?
松江市の概要
島根県松江市は、山陰地方のほぼ中央に位置する県庁所在地であり、宍道湖や中海、日本海に囲まれた水辺の美しい都市です。市名の由来は、慶長16年(1611年)に堀尾吉晴が亀田山に松江城を築き、周辺の白潟・末次の二郷を合わせて「松江」と称したことに始まります。と松江市の公式ホームページで松江のはじまりについて記しております。
松江市ホームページ
https://www.city.matsue.lg.jp/soshikikarasagasu/somubu_somuka/shinogaiyo/3074.html
地形的には、北に島根半島の北山山地、南に中国山地を望み、宍道湖から中海へと注ぐ大橋川が市街地を南北に分けています。この豊かな水系により、松江は「水の都」とも呼ばれ、堀川や湖畔の景観が市民の暮らしに溶け込んでいます。
また、古代出雲の中心地として歴史的にも重要で、奈良時代には国庁や国分寺が置かれました。江戸時代には城下町として栄え、現在もその面影を残す町並みが魅力です。自然と歴史が調和した松江市は、文化と伝統が息づく山陰の中核都市として、多くの人々に親しまれています。
さらに松江市は、経済産業省の調査で「暮らしやすさ」全国1位に選ばれた実績があります。バス停までの距離、求人倍率、病院までの距離、救命救急センターへのアクセス時間、地震発生確率の低さ、地域活動の参加率など、22項目中6項目で全国トップを記録しました。
ハーンが語る『神国の首都〜松江』
ハーンを魅了する「松江」
やはり、松江を語るうえで、語るべきはラフカディオ・ハーン、小泉八雲(1850~1904 Patrick Lafcadio Hearn)でしょうか。松江の尋常中学校への赴任を命ずる辞令に、「Hearn」を「ヘルン」と表記したのが元で、松江では「ヘルンさん」で親しまれています。我々松江在住者にはハーンは"松江のもの"ぐらいの感覚ですが、熊本にも旧居があり、晩年は東京・新宿に住んでいます。松江にはわずか1年程度(※1)の在住でした。
ハーンは自身の著書『知られぬ日本の面影』の中で「神国の首都~松江」というタイトルで松江を紹介しています。
~米つきの連続する音、洞光寺の鐘の音、物売りの声が聞こえ、宍道湖と山々を端から端まですべてを青く覆う霞が空とも入り交じり、美しい幻の海に見える~・・と松江の朝の幻想性に完全に陶酔しきって紹介されています。
またこの1年間で松江の教師仲間で親友、西田千太郎とともに数多くの松江の神社仏閣を訪ねています。記録に残るところでは、出雲大社(出雲市)、須衛都久神社、白潟天満宮、佐太神社、円成寺(松江市内)、清水寺、雲樹寺(共に安来市)を訪れ、佐太神社に関連する史跡として、加賀の潜戸(松江の海岸、島根町)も訪れています(※2)。
ハーンにとって松江は、明治に残る、古き良き日本の風情、神々との出会い、妻セツとの出会、そして友人西田、尋常中学校の生徒たち、様々な出会いがこの1年に凝縮した濃い出会いの生まれた街。それが「松江」だったんだと思います。
(※1)1年2か月15日らしい
(※2)すべてを西田千太郎と訪れたかは不明
ハーンが松江を去る理由
では、なぜそんなに好きだった松江を1年あまりで去ってしまったのでしょうか?それは松江の≪寒さ≫に原因があったと思われます。ハーンは松江の冬、1月に風邪で寝込むことになります(この時、妻セツと出会いますが・・ネタバレになるので詳細は省略します)。著書の中で松江の尋常中学校の教室は火鉢1つで、子どもたちは全員が木綿の薄着でこの環境はどうかしていると教室の寒さに苦情を呈しています。恐らく思うところに、住まいの方も相当寒かったものと想像されます。そこに熊本転勤の誘いがあったと考えると、次の冬の前には・・と考えたのかもしれません。今の我々の建築技術を用いれば断熱性、気密性を高めることで、転勤するほど寒さを体感させることはないと思います。たら・ればの話ですが。
「不昧公」を愛する松江の人々
松江城 ~雲州松江藩~
ハーンとならび、もうひとつの松江の魅力は「国宝松江城」とその歴史にあると思われます。松江城の建築技術の話は別の機会に譲るとして、まず歴史のおさらいとして、1600年初頭に堀尾氏が関ヶ原の戦いの戦功として隠岐・出雲に入り松江城を築城。その後改易になり京極氏が入城。その京極氏も跡継ぎがなく1630年代に、信濃国松本藩より徳川家康の孫にあたる松平直政が入城し、明治まで松平家が松江を治めることになります。松江在住者には堀尾氏も京極氏も残念ながらなじみがなく、断然、松平家です。初代松平直正公も人気ですが、ダントツは7代松平治郷公「不昧公」です。
不昧公 ~薄茶と屋根瓦~
「不昧公」こと松平治郷は茶人で、松江城下にも喫茶文化が育ち拡がりました。陶器などの工芸から茶菓子作りまで、様々な茶道関連の業種、職人が育成され、現在でも窯元や和菓子店は「不昧好み」の伝統を受け継いでいます。松江では抹茶を茶道として嗜むのではなく、良く言えば雑に、何の作法も関係なく「薄茶」をたてて飲んでいます(※3)。そのため各家々には、茶筅とお茶碗は常備してあります。住宅的にはというと、和室が必ずあるわけではなく、テーブル・イスのダイニングで薄茶をたてて飲んでいる方も大勢いるように感じます(※4)。住宅的ということで、松江ならではなのか?不明ですが屋根のお話です。現在は金属屋根も多くなりましたが瓦(かわら)の屋根住宅も今だ健在です。その屋根瓦の端に取り付けられる装飾的な瓦で「鬼瓦」という種類の瓦がありますが、松江では殿様より華美な装飾をすることをはばかり、質素な鬼瓦を取り付ける風習があります(※5)。「薄茶」と「鬼瓦」。松江が城下町として受け継いできたものを、これからも大切にしていきたいです。
(※3)当然お作法の元、きちんとした茶道もあります。
(※4)和室のある住宅も当然あります!
(※5)我々建築業界隈のお話として。調査データなどに基づきません。
https://www.visit-matsue.com/more/history
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島根県松江市上乃木二丁目20-8-101
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